「神の平和」 – 南山常盤会

校長先生から届いた「母校のいま」

2021年12月20日

【ヨセフ・ブルーノ・ダシオン校長】

「神の平和」

ある母親が、手づくりのクリスマスケーキの前に
先ほどまで喧嘩していた幼い二人の息子を連れてきて
二人の肩にそっと手を置いて、言った:
「今日はクリスマスだよ。クリスマスおめでとう。
仲直りして、おいしいケーキをたべよう」。
 
このように、どこの、だれの親でも
仲たがいしているわが子らが仲直りするのを望んでいる。
これが親の尊い祈りなのだ。
親という存在は、つねに
わが子らを守護し、導く天使のようなものであり
その目は子らを表面的な良し悪しで分け隔てしない。
愛情をもって、もっと大事なことを見ている。
 
平和を求めることは
我らの重要な使命なのだ。
平和を願わずに生きることができるだろうか
平和を祈らずに、なぜに生きようとするのか。
 
しかし、考えてみれば
人類が、平和を求めるのに必死なあまり
戦争を選択してしまう例はあまたある。
それは、そもそも、出発点が誤ったからだ。
 
我々は、戦争や争いを終わらせ、平和を構築する思いを持っているが
最初から、戦っている人たちのどちらかのサイドに立ってしまうということだ。
そしてだいたい弱者ややられたほうに味方する。
このようになれば、双方のための平和は実現できなくなる。
弱者だけの平和になれば、相手の強者が憎まれることになり
本当の平和は得られなくなるだろう。
 
平和を実現するには
わたしたち自身をどちらのサイドからも自由にさせることだ。
さもないと、試合を楽しみに見に行ったのに
試合場に入ったら応援するチーム側に席を取り
好きな選手のユニフォームをまとい
応援することと同じになる。
試合を楽しむのをわすれ、戦争モードにギアチェンジをしてしまう。
試合というのは、「両チームがお互いのベストを尽くしてプレーするから面白い」という大切なことさえもわすれてしまう。
このようなわたしたちは、もう平和の人でもなく
試合(スポーツ)を愛する人間でもなくなる、
好きなチームの応援団の一人になるだけだ。
そのような状態の中のわたしたちなら
応援するチームが勝利を得たとしても
心には真の喜びがもてないはずだ。

なぜならば、
相手チームが負けたことを喜び
負けたチームの悔しさをちっとも
思いやってあげる心の余裕がないからだ。
また、相手チームが勝利をおさめたとすれば
わたしたちの心は
完全に相手に対する怒りや嫌味の炎に
支配されてしまうからだ。
 
クリスマスは、「神の平和・真の平和」を
示してくれるのだ。
幼いイエスのもとに集う中には
家族の者も、見知らぬ者も
貧しい羊飼いたちも
富裕な王様・博士と呼ばれる人たちも
いる。  
正しい者も、正しくない者も
動物の群れも、あまたの天使も集ってくる。
これこそ、無償で分け隔てのない神の愛を示している。

「(神)は善人にも、悪人にも雨を降らせ、正しい人にも正しくない人にも太陽を登らせる…」
イエスは教えた:「昔の人たちは、『仲間を愛し、敵を憎め』と教えたが
わたしは言っておく『敵をも愛し、あなたを憎む人のために祈りなさい』」と諭す。
(『マタイ福音書』5章43節―45節参照)
 
弱者や貧しい人を守るがために
強者や富裕者を憎んで、打ち倒すことは
何のためにもならず、ひどい対立をのこすだけになる。
自分の善行を誇り、悪人を裁き
自分の善行に賛同しない人を憎み
自分が善人であることを否定する人を敵と思う
そのような者なら、平和を実現することやチャリティーなんかできるわけがない。
 
平和は、愛しあうとゆるしあうこと
平和は、謙遜とへりくだること。
平和は、人を敵と思わず
人をみかけで判断せず
その心の美しさだけを信じて愛し続けていく努力を惜しまないこと。
 
神の平和が
世界平和、わたしたちの平和
自分の平和になることを祈ろう。
 
良いクリスマス、良い新年を。

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