vol. 70 後藤 敏彦(S18)「コンポステーラに導かれ」 – Nanzan Tokiwakai Web
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2012年5月23日

vol. 70 後藤 敏彦(S18)「コンポステーラに導かれ」

 土を起こし畝を建て、種を落としたポットへの水やりを家主に頼み、愛媛の庵を出て、マドリッドに旅立ったのは、白梅が咲き始めた3月。スペイン・ブルゴスから、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を完歩するためである。

 サンチャゴは、キリスト12使徒の最初の殉教者・聖ヤコブのスペイン名。
聖ヤコブの聖遺物と立証された遺骸が、ガリシア地方の野原(カンポ)で、星(ステラ)に導かれて見つかったとされてから、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマと並ぶキリスト教3大聖地となった。

 1000年の歴史をもつ聖地サンチャゴへの順路はいくつかあり、私は、ピレネー山脈を越えてフランスから入るルートを選んだ。この通称フランス人の道は、パリから全長1600キロだが、現在も、巡礼路や巡礼宿が整備されているフランス内の起点であるサンジャン・ピエ・ド・ポーまで列車で移動し、そこからは、聖ヤコブのシンボルである貝殻マークの道標に導かれて、山道を含む820キロの行程を歩くことに決めた。自称”百姓”の私は、農閑期を選び、行程を前半と後半に分けて、春と秋2度の渡欧で、サンチャゴへの道のりを進むことにした。

 刈り入れと脱穀を済ませた昨年の9月、サンジャン・ピエ・ド・ポーから、牛追い祭りで有名なスペイン・パンプロナを経て、まずは、ブルゴスまでの350キロを16日間で歩き終えていた。

 そして、3月24日。後半の旅が、再び、ブルゴスから始まった。帰りの航空券の日付は、4月25日。後半の道程470キロを、ひと月で歩かなければならない。

 一日平均20キロの行脚を想定して、天候や標高を考慮しながら宿をとる。相談相手は、ガイドブックと足の痛みだ。もはやガイドブックは、汗と風雨に雪、手垢と書き込みにまみれてすりきれている。この全長20キロの延々と続く道程は、けれども、黙々と、進むべき道。ひたすら歩く。

 前回の秋のブルゴスでは、帰朝の前に、順路をそれて、ブルゴスから南に60キロ。
グレゴリオ聖歌発祥のシロスの修道院に足を延ばし、修道士たちの男声聖歌グレゴリアンで7回のミサ・時課に与っていた。男子部時代は、合唱部と水泳部に在籍し、会社勤めの名古屋時代は、名古屋教区の信徒会長を務め、オペラ『26人の殉教』をプロデュースしたこともあり、もともと、フォーレの合唱曲や典礼聖歌が好きな私は、装備のipodに、それらの曲をいれていたが、歩く時、それを聴いたのは、足の痛みを紛らした3回だけ。景色や音楽を楽しむ余裕はもちろん、考える時間すら与えてくれないことも多い道のり。リュックをかついだ背に10キロの荷が喰いこむ。下を向き、前のめりになって歩く。たたきつける雨風が、しんどい。湿布を貼り直しては足の痛みに耐えて、歩きつづける。

 かつては救護施設だったところもある一泊平均5ユーロほどの”アルベルゲ”と呼ばれる巡礼者用の宿で、チーズやパン、ヨーグルトなどを摂りながら、二段ベッドで寝袋に眠った。今なお手の甲に残るダニの痕跡は、宿の手土産。朝の祈りを済ませて、また、一日が始まる。そして歩きはじめる。世界中から集まってきた巡礼者たちとは、時に食事を一緒にしながらも、共に歩くことはしない。歩幅も違う互いのペースを乱すからだ。一度、オーストリアの54歳の女性と並行して歩いたことがあるが、欧米人との体格と体力の差を見せつけられ、この時ばかりは、オリンピックの陸上競技で日本人が勝つことの難しさを認識した。

 とりわけ苦しんだのは、2日間、雪が降り続き、10センチ以上積雪したイラゴ峠と、最後の難関といわれる標高1500メートルの雪のセブレイロ峠越えだった。
吹雪に向かって3日間、雪中行軍するうち、手足が凍え、背中が痛んだ。肉体的疲労が続くと、それは精神的苦痛に変わる。”なんで、オレはこんなことをしてるんだ?”苦悩の中で思い出すのは、なぜか南山時代のことばかり。かじかんだ指で、S18の同期生に、アルファベットを並べて、泣きのメ?ルを送った。しかし、前に進むしか道はない。後には道はない。病気や怪我以外の宿の連泊は許されないのだ。長い休息をとると、馴染んだ足のマメが、また疼きはじめるため、短い休息か、立ったままの休憩。それでも歩く。

 どこまでも続いた麦畑、乾いた台地、砂利の坂道、13日も降り続いた雨・・巡礼の拠点となる村々の宿で、巡礼の証として、ひとつひとつ、刻印されていくクレデンシャル(巡礼者手帳)も、3冊目の半分を過ぎた。4月18日。”モンテ・ド・ゴソ”(喜びの丘)とよばれる残り4.5キロまでの地点に到達した。はるかにサンチャゴ大聖堂の尖塔が見渡せる丘は、昔から巡礼者たちが、終着地を目前にして歓喜の涙を流したといわれる地だ。しかし、不思議と、”オレはやったんだ”というような感傷的なものは無い。ただ、あるのは、いよいよサンチャゴへのカウント・ダウンだという高揚感だ。

 翌19日。”4.5キロなら、私の脚力では90分”と、ふんで、早朝8時に最後のアルベルゲを出発。9時半には、サンチャゴの街に入り、巡礼事務所で、巡礼証明書をもらった。宗教的観点から巡礼行脚を完遂させたという意味のラテン語で名前と日付が記された認定書だ。そして、12時から始まったサンチャゴのカテドラルでのミサに与りながら、自分の肉体的忍耐力への再認識と、”歩いた”という実感を、淡々と味わい、主祭壇上部の聖ヤコブ像を背後から抱き口づけして、地下の聖ヤコブの棺と向き合った。それは、とりもなおさず、自分自身や信仰心と向き合うための時間でもあった。

 どうして巡礼の旅に出たのか?人に聞かれて、改めて自分に問う。18歳で知り合って25歳で結婚した妻・智子の遺骨と”二人同行”したサンチャゴへの道。
12年前、一緒に行った旅の温泉宿で急逝した妻の名からとった”智想庵”に、リタイアして移住したのは、8年前。クリスチャンに改宗したのも、かみさんの影響だった。受洗して43年になる信仰心と、妻への弔いの気持ち。これが動機への質問に対する明確な答えであることに間違いはない。しかし、”この先の人生、オレは
どうなっていくのだろう”という少なからずの不安。こうした心模様のすべてが、巡礼へと私を駆り立てた。秋の16日と春の27日・・計43日間・820キロの聖地への行脚が、私に与えてくれたものは、今後を生きるために必要な自信と、これでいいという確信だったと、今思う。

 帰庵して5月。周囲の山々は、とりどりの新緑でキルトのパッチワークのような盛り上がりを見せている。

智想庵 後藤敏彦 (S18)

1947年11月23日 鳴海で生まれる
1960年 南山中学校入学
     水泳部、合唱部
1966年 南山高校卒業
1966年 河合塾千種校一期生
           妻・智子と知り合う
1967年 愛知大学法経学部入学
           剣道二段、体育会会長
1971年 愛知大学法経学部卒業
1971年 興和(株)入社、名古屋繊維部配属
1972年 受洗、結婚
           鮎友釣りにハマり、以来各地を転戦
1975年 興和(株)、大阪繊維部転勤
1991年 興和(株)、経理部転勤
           居合道二段
           興和興龍会事務局(私設応援会)
         カトリック名古屋教区信徒協会長
         オペラ「26人の殉教」プロデュース
2001年 興和新薬(株)大阪支店転属
2002年 妻・智子、旅先の郡上にて、くも膜下で昇天
2004年 興和新薬(株)早期退社
2005年 一年の農業実習
           福岡正信氏に憧れて愛媛の地を選ぶ
2006年 智想庵を結んで、隠遁生活に入る
           四万十川の支流:広見川上流沿い
           裏山の稜線を越えると高知県の山奥です

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