vol. 128 近藤 敬子(G28)「余生」を生きてみる – Nanzan Tokiwakai Web
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2018年3月31日

vol. 128 近藤 敬子(G28)「余生」を生きてみる

 統計を取り始めた1947年、女性の平均寿命は53.96才。あれ、それなら私もう死んでるじゃん。それから100年も経っていないのに、平均寿命は世界有数を数えるまでに伸びている。
 
 54才の死、その頃は20才前後で結婚して家庭を持ち、子育てを終え、孫の顔を見る頃に人生を終えていただろう。かえって現在、54才は未だ定年すら迎えず、働き盛りとも称され、残された長い時間に戸惑ってさえいる。
これからの人生はすでに「余生」ではないのか?どう生きるのか。私なりの考察を加えてみよう、これを読む方々のたった一人にでも伝われば幸い。
 
 「自分の年を3で割ると、一生を一日に例えた時の時刻になる」という話を聞き、早速計算してみると18時、と出た。朝起きて学校や仕事に出かけ、終わって家に戻って夕飯の支度をしている頃。一日の食事はこれで最後、寝るまでの時間も長くはない。
子供が独立して子育てを終え、後片付けをしながら眠りにつく前に自分の時間を楽しむ。これって今の自分のよう、と妙に納得してしまった。
  
 振り返って身の回りを見てみると、家の中は脱ぎ捨てた服が散乱するかのように過去の残骸がまとわりついている。本棚には、二度と読み返すことのないような本が溢れかえり、クローゼットにある服は何割、今年着ただろうか?棚を見れば、間もなく社会人になる息子が小学校の頃の賞状や盾が飾られている。
  
 私はもう、決して若くはないけど、過去の思い出に浸って余生を過ごすには早すぎる。人生の折り返し点は過ぎてしまった、でも残った人生を豊かに過ごしたい。
今まで楽しい事や苦しい事があり、不幸を乗り越え、幸福を感じたことは数多あったけれども、たった今、ここで人生を終えたとしたら満足だったといえるだろうか。
  
 たった今、死んだとしたら。
  
 そう考えながら一つ一つ始めること、終える事を考えてみる。
「あの時、〇〇しておけばよかった。」が一つでも減るように。
 
 最近、余生の話をしていて(一回りほど違う)友人と話していた時に言われた事。
「自分の年に時速をつけてごらん、それがゴールに向かう速度」
時速55キロ、高速とまでは行かないけど一般道では十分速い速度。
制御できなくなるスピードになる前に、子供の為でも家族の為でもない自分自身の人生を全うしたい。
それが今、一番の望み。
  
 雇用機会均等法が施行されて後、短大卒と言う事で差別を受けて悔しく感じ、再び大学の門を叩いた。名古屋大学の社会人枠入学で、同級生には小学校校長を定年した人もいた。
今、彼と同じくらいの年になって思う。
学びたい、何かを求めたい気持ちに年齢など関係ないと。
遅すぎる事は無い、後悔するなら死枕の上で。
気持ちがある限り、叶える事が出来るはず、それが南山スピリットなのかな。
「大切なことは南山の学び舎ですべて学んだ」気がするのです。
  
  
プロフィール
近藤 敬子(G28)旧姓 森井
華道 神宗流 副家元
航空関連会社勤務を経てシートンヒル大学コミュニケーション学科にて学ぶ
帰国後、航空会社勤務を経て名古屋大学法学部法律学科編入、卒業
企業内英語研修・大学就職支援講座 講師
岡崎高校華道部非常勤講師

 

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