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2021年10月24日

vol.164  森本 紳一郎(S19)「南山中学・高校時代の思い出―中村 敬先生に感謝―」

 南山時代の思い出には、様々なものがあるが、英語を担当頂いた中村 敬先生を抜きにしては、当時の思い出を語れない。中村先生は、南山大学の英文科を卒業されて、女子部でお教えになられた後、男子部で教鞭をとられた。私は中学1年から3年までご指導頂いた。
 当時、先生は30歳前ぐらいであったと思う。1学年4クラスの内、2クラスが中村先生、2クラスが黒川明雄先生の担当ということもあったと記憶している。私達はベビーブームで数多く、高校から入学してきた生徒も50名いた。この50名は、高校時代に中村先生にご指導頂いたと聞いているので、私たちの学年270名はどこかで中村先生にご指導頂いていたはずである。
 当時、副読本として、「英語の学習20の階段」(金子書房 佐々木高政著)が用いられた。この副読本には例文が500ほどあり、教科書とこの副読本は、全て暗記させられた。英語は毎週7時間あり、中村先生の授業は毎日あった。毎日、和文英訳の小テスト5問があり、正解1問以下は坊主にさせられた。
 当時、公立中学は坊主であったが、南山は長髪が認められており、それで南山に進学を決めたという生徒もあり、これは苦痛であった。
 先生は、英訳用の和文を口頭で1回しかおっしゃらず、ピリオドをうっかり忘れたり、大文字と小文字の取り違えも容赦なくバッテンで、2割ぐらいは坊主にさせられたと記憶している。そのため、皆夢中で英語の勉強をしていた。往きのバスで立っていても、弁当を食べている時も、英語の教科書をひろげて覚えるのに必死であった。
 これが月曜から土曜まで、毎日中学3年間続いたのである。今、考えると中村先生は、毎日220名分採点しておられた訳であるから、私達より大変だったと思う。
 当時あっけにとられて、今でも記憶していることがある。それは中学2年の遠足の時である。今日は英語の宿題がなく、今日こそはのんびり出来ると思っていたら、中村先生が各バスを回ってきて、明日までにここを勉強して、覚えてくるように指示されたのである。これには本当にあっけにとられて、今でも鮮明に記憶している。ここまで中学全体で英語の勉強をしていた学校は、全国でも間違いなく他になかったと思う。
 他校から英語の授業参観に来られる先生は多かった。前述したように、私達の学年は高校から50名入学している。その高校の入学試験問題を、男子部220名と女子部220名に課せられた。英語に関しては、女子部より男子部の方がはるかによかったということを、高校1年の時に英文法の桑野先生から聞かされた。
 私達は、既に中学3年の時から長文問題に接していた。したがって大学入試においても、中村先生に鍛えられた私達は英語で苦労したことはなかったはずである。
 社会人になって、NHKテレビをつけたら、先生がテレビ講座で活躍しておられた。朝の早い時間であったので、私はこの講座を目覚まし代わりにしていた。また後日、多くの英語教科書の編集主幹を務めておられたことを知った。
 私は、今から30年前にスタンフォード大学に留学し、その時同じアパートに中央大学の英語科の教授がおられて、学生時代に中村先生に教えて頂いたと話したら、その教授があの中村先生ですかとビックリしておられた。英語の教育業界では、中村先生を知らない人はいないと言っておられた。
 私は、小学6年の時に、父親から南山は英語教育が優れているという理由で、南山進学を勧められた。南山で中村先生に教えて頂き、また多くのよい友達に恵まれて、南山で6年間を過ごせたことは本当によかったと思っている。
 そもそも教師はと問われれば、やはり中村先生のお顔を思い出す。これほど情熱を持った先生を他に知らない。
 中村先生の卒寿のお祝いを、私達の学年は計画していたが、コロナ禍で出来なかった。先生にまたお目にかかれるように、そして先生がいつまでもお元気でいらっしゃることを願っている。
 
 
森本紳一郎
 
略歴
1967年 南山高校卒業(S19)
1974年 岩手医科大学 医学部卒業
1982年 医学博士(東京女子医科大学)
2003年 藤田医科大学 医学部循環器内科教授
2013年 総合青山病院 病院長
2015年 藤田医科大学 客員教授
趣味
ダイビング、ゴルフ、食べ歩き、温泉

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