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2023年11月19日

vol.185 鈴木 涼太(S18)「しかももとの水にあらず」

 GoogleマップのStreet Viewで、かつて70年前に6歳から18歳まで住んでいた千種区の本山駅付近を久しぶりに「歩いて」見た。(私は今、川崎市に住んでいる。)

 先ずは昭和23(1948)年に生まれた地点に行ってみる。千種区稲舟通り2丁目、城山中学の斜め向かいの入船山と言う小さな森の中である。今はその半分位が削り取られて見付小学校になっている。でも森の半分は残っている。その森から真西に歩いていくと椙山幼稚園がある。そこに通った。椙山学園は覚王山の山の下だから結構遠いが、一直線の道だから森から見通せた。
 
 昭和30年頃のこの付近は一面の田んぼだった。稲を植えに水田に入る時に、昔は船で入ったそうだ。だから稲舟通りなのだ。本山の交差点は五差路になっていて、その一つがこの通りなのだ。細い道だが山崎川も走っている。
 
 一方、城山中学の次の四つ角を東に曲がると名大の鏡ヶ池に行く道になる。その鏡ヶ池の横に附属高校がある。今を時めく将棋の藤井八冠の母校だ。瀬戸からよくここまで通ったものだ。
 
 小学校に通い出す頃に本山の電車道に面した家に引っ越した。両親が洋品店を始めたから。昔は名大に行くには、本山から歩くかバスしかなかった。お隣の町、城山には愛知学院大もあり、本山は古本屋も複数軒有ってちょっとした文化的な商店街だった。因みに作家の城山三郎さんはこの城山の大学で教えていたのでペンネームにした。その先、末盛の城跡には夢殿みたいな昭和塾堂が建っていて覚王山の月見坂から良く見えた。
 
 南山に入ってからの6年間を自転車で通学したが、本山から名大に行く四谷通りの登り坂はちょっときつかった。名大構内を過ぎるとまたちょっとした坂道で、これを越えると八事日赤への下り坂となり、四つ角を右折すると杁中の駅までは全て下り坂で、これで一気に授業開始に間に合った。今では信じられないだろうが、本山から杁中までの道はきちんと路端までは舗装されておらず、雨が降った後などは溝が掘られてしまい、下り坂は自転車には危険だった。
 
 この、右折した丘の上に今の南山大学が移転して来ようとは思ってもいなかった。昔は牧場もあった丘である。我々S18/G13が高校生になった時だった。大学の本館と講堂が男子部構内に残り、朝と昼には教会の大きな鐘の音が辺りに鳴り響いた。今の日本のカトリック教会のトップである菊地功大司教は我々の10年後に南山高校で学ばれていた。同じあのキャンパスの空気と音を知っておられると思うと何だかちょっと嬉しい。アフリカで宣教をされていたお話を以前伺った。さすが行動の神言会。
 
 一方、本山駅付近は本屋も無い表情の少ない町並みになってしまった。千種の正文館も閉店したと聞いた。昔ありし家も本屋もまれになった。紙からスマホへと人は流れて行く。
 
 75年の過ぎ去った時を想い、Street Viewでもう少し「歩き」回ってみようか。
 
 
プロフィール
鈴木 涼太(S18)
 
 空き地で紙芝居を見て育ち、伊勢湾台風を小6の秋に体験して、翌年の春に南山中学に入学。
 南山高校卒業後、東京の大学の電気工学科に進学、日本電信電話公社(現在のNTT)に入り、マイクロウェーブ無線通信や、
 衛星通信で日本中にダイヤル即時電話を通す事に専念。
 また、テレビジョン放送番組を無線通信で中継し、全国に送り届ける仕事 にも随分と打ち込む。
 今では信じられないほど昭和40年代の日本の電気信網は薄くて遅れていました。
 この後、若い時から好きだった移動無線通信をやりたくてdocomoに移籍。
 そんな中で、時々帰省して本山や名古屋を歩き回っていました。つまり、二十歳過ぎに東京へ出稼ぎに出て、会社員生活を勤め上げ、
 今は川崎市の自宅で自適の日々です。

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